エピジェネティクス(epigenetics)の台頭

其の1

小生が学生時代に学んだ1980年代頃の遺伝学では、遺伝形質の発現は、ワトソンとクリックが発見したDNA上の遺伝情報が、DNA複製→RNA転写→蛋白質合成→遺伝形質発現という経路で伝達・表現されると考えられていました。このセントラルドグマ仮説に従うと、形質変化(遺伝子変異)が起こるということは、DNA一次配列の変化が生じていると考えるのが合理的であり、実際、遺伝子変異の一部はDNA配列の変化に起因することが実証されてきました。加えて、2003年にヒトゲノム完全解読を終了した時点で、疾患の大部分は特定の遺伝子変異によるもので、その詳細な解析は時間の問題と思われていたのです。

其の2

しかしながら、DNA配列の変化を伴うことなく、DNAへの後天的な修飾により形質変異が生じる調節機構が発見されはじめてから、上述のようなセントラルドグマ仮説のみではその調節機構の説明が困難になりました。即ち、DNAの塩基配列を変えずに後天的な修飾により遺伝子発現を制御し、且つ細胞分裂後も体細胞ではその記憶が継承される調節機構を研究する遺伝学あるいは分子生物学であるエピジェネティクスが、飛躍的に発展してきています。

其の3

例えば、生命現象に関わる胚発生・分化にはエピジェネティクスはなくてはならない機構であり、同一個体内においても組織幹細胞や分化の制御に重要な役割を演じ、組織を維持して環境に適切な応答をして、その結果を記憶する機構であり、その異常は老化、癌の原因や後天性疾患の発症にも関与していることが強く示唆されています。さらに、生殖医療、再生医療、iPS細胞に代表される細胞のリプログラミングなどにおいても、エピジェネティクスの重要性が認識されてきています。最近においては、エピジェネティクス的な機序が遺伝子発現に関与している事例も多数報告されるようになってきています。

其の4

平易に言えば、エピジェネティクスはDNAの遺伝子情報を同一個体内で環境に応じて如何に即応して活性化/不活性化できるかだけでなく、多彩な修飾基を用いることにより、その発現の強度を調節したり、その個体状況を記憶できるかを探る学問であり、その異常は様々な疾患を誘発することが予想されています。

其の5

具体的には、エピジェネティクスでは次のような修飾制御機構が挙げられています。

1)DNA塩基のメチル化による遺伝子発現の変化

DNAメチル化修飾は、遺伝子発現情報や細胞の性質を、細胞分裂を経て次世代の細胞へ安定的に継承する分子機構です。正常なDNAメチル化制御は生物の発生・恒常性維持の基盤となり、細胞分裂を経て次世代の細胞へ継承され、長期に安定な記憶機構として機能します。癌をはじめ多くの疾患ではDNAメチル化機構に異常を認めます。

2)ヒストンの化学修飾による遺伝子発現の変化(ヒストンのメチル化、アセチル化、リン酸化、ユビキノン化、ADPリボース化など)

ヒストンのメチル化修飾は転写の抑制あるいは活性化と密接な関係があります。この他にも、レトロウィルスの転写、胚性幹細胞の未分化能の維持、DNAメチル化修飾の制御などの機能も有することがわかってきています。

3)ポリコーム群 (polycomb group: PcG) 蛋白質複合体

PcG蛋白質はクロマチン上で複合体を形成して標的遺伝子(生物の体軸形成、ES細胞の多能性維持と分化に関わる遺伝子、発癌遺伝子)の発現抑制状態を維持しているが、まだその詳細な機構は解明されていません。

4)クロマチンモデリング因子

クロマチン構造の動的変化を、複数のクロマチンモデリング因子が役割分担して制御していることがわかってきましたが、詳細は不明です。

其の6

特に、ヒストンの修飾の組み合わせが遺伝子の活動状況と相関しているため、ヒストンコード(histone code)あるいはDNAのメチル化とあわせてエピジェネティックコード(epigenetic code)と呼ぶことが多いです。また、このエピジェネティックコードは、変容する環境因子刺激により応答して、エピゲノム修飾として記憶されています(エピジェネティックメモリー)。従って、多様な環境因子刺激によるメモリーが細胞や組織に蓄積して、将来的には個体差として反映されていることも予想されます。
尚、基本的には、修飾酵素によるDNAおよび蛋白質の印付け、印付けへの認識蛋白質の結合、蛋白質複合体のリクルートによるクロマチン形成、という共通するメカニズムで働いています。

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